桜の樹の下には屍体が埋まっている

梶井基次郎
    桜の樹の下には

「桜の樹の下には屍体が埋まっている」
という強烈は言葉は、子供達の間でまことしやかに囁かれていた怪談のようなものだった。
一本一本の樹の下に屍体があるのかと、ひどく恐ろしい思いをした記憶もある。

 梶井基次郎『桜の樹の下には』を初めて読んだのは、確か学校の図書館だった。
「ああ!これが元だったのか」と、衝撃を受けたと同時に美しいものの下には悍しいものがあると言うことには全く共感できなかった。
 美しいものは美しいものから生まれると信じていたし、悲観的である感性も卑屈とも言える薄暗さにも、少しも共感がなく、けれどもねっとりと絡みつくような、おどろおどろしい直情的な感情は確かに私の中の価値観に残った。

『桜の樹の下には』は1928年(昭和3年)、梶井基次郎が26歳頃に発表した作品である。現在の私と同じ歳だ。
 最近たまたま本作が目にとまり、思い出したのは古本臭い図書館で今では感じることのできない20分かそこらの長い休み時間共感できないと思いつつも、幽霊の正体見たり枯れ尾花とどこか清々しいような気持ちがしたことである。

 改めて読み返す。

 おおよそ100年前の作品から「俺」が「お前」である私に語りかけてくる。
 今の私は土の中に雑菌や虫や目の退化した様々な生き物がいて、今踏み締める大地にも様々な命があり、そしてそれを殺して生きていると知っている。背伸びした難しい本を読むことで大人になったと思っていた純真な少女は成長する中で、世界の悍ましさに食事が出来なくなり長く悩んだりもした。
 そんな人生をチロチロ歩み、たどりついた26歳というという今、この作品は私の心に深く突き刺さった。美しいということは恐ろしく悍しいものだ、人は生きるために沢山の犠牲の上で成り立っている。魚1匹を獲ったってその中にいる沢山の寄生虫すら殺すし、米という種子の何万もの未来を摘んで食べる。殺さずに生きてゆくのは不可能だ。けれど、ふっとそんな命の上にいる自分にそれほどの価値があるのかと考えたりもする。

実にめんどうくさい。
 だが、きっとそういう事なんだろうと、今の私は思った。
 ただただ美しいものなんてあってはならない、だってそんなただただ美しいものがあったら、こんなにも悍しい『俺』は生きてはいけない。ダイヤモンドだって最初はただの石ころだし、「ただ見れば何の苦もなき水鳥の足に暇なき我が思いかな」とも詠まれている。
 優雅で何の苦がなさそうに見えたって、見えないところまで綺麗なものはいないのだ。それこそ一部の隙もなく美しく見える桜だって、虫や動物の屍体くらい吸っていなくちゃ可笑しい。そのくらいの欠点があってこそ、この現世で一緒の一つの命として同じ時間を共有で来るようになる。

『お前は何をさう苦しさうな顔をしてゐるのだ。美しい透視術ぢやないか。俺はいまやうやく瞳を据ゑて桜の花が見られるやうになつたのだ。昨日、一昨日、俺を不安がらせた神秘から自由になつたのだ。』
おおよそ100年前、梶井基次郎がたどりついた答えに、今私が追いついた。

 悲観的で卑屈な薄暗い大人になった。
 しかし一方で、水の中で必死に足を動かすことを「カッコ悪い」ではなく、必死に生きる力強さとしてその努力も慮れるようになった。人の痛みにも共感できるようになった。「歳を取ると涙もろくなる」というのも人生を重ねて人の痛みを知り、人の気持ちを考えることができるようになるからこそ起こるのだろう。卑屈なのも悪くはない。

そう思って、私は今の私にしかないだろう気持ちを込めてこの短編を切ることにした。
桜の樹の臓物を暴いていくように、けれど桜の尊厳を奪わないようにと想いを乗せて切っていった。

出来上がった作品に「美しい」「狂気」とのコメントがついた。
それこそが26歳の梶井基次郎に、100年後の26歳が『お前』が返せた返事である。



切り絵作家 梨々

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