やまなし
宮沢賢治
やまなし
国語の授業で問われた「クラムボンとはなんなのか」という問いをたまに思い出す。
それは泡である。それは溺れた昆虫である。それは光である。
散々考察され尽くされた、クラムボン。
最近では、トビケラやカゲロウの幼虫がそうなのではないかと言われているらしいが、これだ!と何か断定されるのは、寂しい気もする。
子供の頃、福島の山奥の川に潜ったことがある。
潜ると言っても深いところで1mも無かったが、それでも私には大冒険だった。
蝉の声が汗を誘う初夏とはいえ、足先をつけただけで震えるほどに冷たい清水の中に足を進め、肺が痛いほどに空気を吸い込み、頭まで浸かる。
熱かった身体が川に抱き込まれる。
プールでは聞いたことのない、うねる川の水音。上からは見えなかった小さな魚は、さっと影に隠れ、陽光が川底の砂に模様を描く。
川底の荒い砂の上に寝転がり、歪んだ陸の世界を見上げるのはとても楽しかった。
水の中でも蝉の声は届き、ヤゴや水蟷螂なんかは陸の虫と変わらず生きていて、別世界だと思っていた水のなかは繋がった世界なのだと知った。
やまなしの蟹の兄弟たちもこんな川の中にいて、そしてその世界は私たちのすぐ近くにあるのだろう。
そう考えると、クラムボンはやっぱり、泡や、光や、昆虫などなのだろうが、蟹からみた泡は私が見るものよりも何千倍も大きく、石を覆う藻はススキ野のようで、泳ぐハヤやヤマメは龍のように大きく優雅なのだろうから、正体がわかっても同じように見ることは叶わないだろう。
なら、やはり、クラムボンの正体はわからないままでいい。
けれど私は、小川を覗くたび、サワガニを見るたび、カプカプ笑い、死ぬ、謎の生き物について、想像することはやめられないだろう。
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